憲法

2016年10月12日 (水)

死刑制度廃止派と存置派の議論

死刑制度廃止派と存置派の意見をまとめておく(私は存置派です)。

(●死刑廃止)国による殺人は悪。
(▲死刑存置)①刑罰自体に正当性がある。②死刑廃止国も司法外で国による殺人(フランスのシリア空爆や確保時のテロリスト殺害等)を行っている。③懲役刑も国による犯罪(=人の拘束)であるが、刑罰であることから正当化される。

(●廃止)冤罪による死刑を回避する必要。
(▲存置)「冤罪」は抽象的なものではなく、個々の事案による。死刑相当事案の多くは冤罪可能性はなく、そのような事案に死刑を適用しない理由はない。①冤罪可能性のない事案(例えばフランスニースのテロ等はその典型)と②冤罪可能性のある事案を区別し、死刑判決を①に限定すればいい。

(●廃止)死刑は憲法が禁止する残虐な刑罰(憲法36条)であり人権侵害。
(▲存置)まともな憲法学者でそのような意見の学者はいない。

(●廃止)死刑はキリスト教等の宗教的精神に反する。
(▲存置)刑事司法の対象は、宗教家ではなく、一般の人々。(死刑が)宗教上の信念に反する人や死刑制度廃止派は自分が被害者や遺族になった時に加害者を許せばいいだけであり、その価値観を、犯人の死刑を望む一般の被害者や遺族に押し付けるのは傲慢である。

(●廃止)死刑存置派は被害者の利益しか考えていない
(▲存置)加害者の事情(殺人の数・責任能力・動機・情状等)は裁判の中で十分考慮される。加害者に酌むべき事情がない場合の究極の刑罰が死刑。遺族が死刑を望んだからといって死刑になっているわけではない。

(●廃止)死刑に正当性はない。
(▲存置)自分が犯した犯罪に対して「責任」をとることは当然であり、犯した犯罪の重さ(例えば情状の余地のない大量殺人等)によっては死刑という刑罰に正当性がある。

(●廃止)刑罰は国が科すものであり、被害者や遺族が科すものではないから、被害者・遺族の処罰感情は理由にならない。
(▲存置)従来敵討ちが正当なものとして認められていたところ、国が個人にかわって刑罰を科すことになって、敵討ちが禁じられることになった。だから、国による刑罰には、被害者・遺族が納得できるだけの正当性をもつ必要がある。

(●廃止)死刑廃止は欧米の標準である。
(▲存置)欧米に倣えで導入した司法改革は大失敗であり、(欧米型)コーポレートガバナンスも機能しない状況で、無批判に欧米型を受け入れる合理性はない。

(●廃止)フランスのニースのテロのように100人殺し、遺族全員が犯人の死刑を求めても、死刑にできない。
(▲存置)上記のような場合死刑にできる。

(▲存置)被害者や遺族(ある日突然子どもや家族を奪われた遺族等)は最も利害関係のあるステークホルダーであり、いかなる意味でも落ち度はない⇒①被害者や遺族が納得する刑事司法制度であることが必要であるところ、②被害者や遺族の多くや犯罪被害者の権利擁護活動をしている専門家は、死刑存続を求めている。

(●廃止)死刑になるために殺人を犯す人もいる。
(▲存置)「死刑になりたい」というのが殺人の本当の動機なのか疑問だし、そのような人はパーソナリティに問題があるわけで、死刑がなければ、殺人を犯さなかったのかといえば、それは疑問。
現実に、衣食住が確保される刑務所に入るために、窃盗を繰り返す人も少なくない。死刑制度が廃止になれば、長期に刑務所に入るため、車で歩道に突っ込んで人を殺すような人がでてくることが想定される。

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2016年5月 4日 (水)

夫婦別姓訴訟大法廷判決

最高裁H27.12.16    

<事案>
原告ら5名は、婚姻前の氏を通称として使用している者又は氏の選択をせずに提出した婚姻届が不受理となった者。

原告らは、民法750条(「本件規定」)が憲法13条、14条1項、24条又は「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に反するものであって、夫婦同氏制度に加えて夫婦別氏制度という選択肢をもうけない立法不作為が国賠法1条1項の適用上違法の評価を受ける⇒国に対し、それぞれ精神的損害の賠償金150万円又は100万円の支払を求めた。
 
<規定>
民法 第750条(夫婦の氏)
夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。

憲法 第24条〔家族生活における個人の尊厳と両性の平等〕
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 
<争点>
①憲法13条に関連して、婚姻の際に、「氏の変更を強制されない自由」が人格権の一内容であるといえるか
②憲法14条1項に関連して、本件規定がほとんど女性のみに不利益を負わせる差別的な効果を有する規定であるといえるか
③憲法24条に関連して、本件規定が同条1項の趣旨に添わない制約を課したものか本件規定が同条の定める立法上の要請、指針に照らして合理性を欠くものか
 
●憲法13条関係 

◎「人格権」の位置づけ 

最高裁の判例
①公権力との関係で憲法13条により保障された権利として認められたもの(ex.みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由)
②憲法13条を根拠とする権利として触れられたもの(「人格権としての個人の名誉の保護」)
③私法上の権利として認められたもの(「肖像等が有する商品の販売等を促進する顧客吸引力を排他的に利用する権利(パブリシティ権)」)
④権利には至らない法的保護に値する人格的利益として認められたもの(ex.他人からその氏名を正確に呼称されること)
⑤法的利益であることが否定されたこと(ex.「宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益」)

「人格権」の内容や位置づけは様々。

氏名は「人格権の一内容を構成するもの」(最高裁昭和63.2.16)としても、具体的な検討は、氏名に関するいかなる内容の利益が問題となっているのか、それが憲法上の権利として保障される性格のものであるのかといった点を念頭に置いた上で行う必要

◎判断 
「氏」を含む婚姻及び家族に関する法制度は、その在り方が憲法上一義的には定められておらず、具体的な内容は法律により規律される

氏に関する上記人格権の内容も、憲法上一義的に捉えれるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度をまって初めて具体的に捉えられる

一定の法制度を前提とする人格権や人格的利益は、いわゆる生来的な権利とは異なり、具体的な法制度の構築と共に形成されていくものであって、当該法制度において認められた権利や利益を把握した上で憲法上の権利であるかを検討することが重要となるほか、法律による制度の構築に当たって憲法の趣旨が反映されることを指摘したもの。

現行の民法における氏に関する規定を通覧した上で、氏の性質について、名と同様に「個人の呼称としての意義」があるものの、名とは切り離された存在として「社会の構成要素である家族の呼称としての意義」がある。

婚姻の際に「氏の変更を強制されない自由」が人格権の一内容を構成するものではなく、本件規定が憲法13条に違反するものではない。

○人格的利益として機能する場面
but
氏を改めることにより、
①いわゆるアイデンティティの喪失感を抱くこと、
②従前の氏を使用する中で形成されてきた他人から識別し特定される機能が阻害されること、
③個人の信用、評価、名誉感情等に影響が及ぶことといった不利益が生ずることは否定できず、近年の晩婚化が進んだ状況の中では、これらの不利益を被る者が増加してきていることがうかがわれる。

これらの点についての利益は、憲法所の権利として保障される人格権の一内容であるとまではいえないものの、憲法24条に関連し、氏を含めた婚姻及び家族に関する法制度のあり方を検討するに当たって考慮すべき人格的利益
 
●憲法14条関係 

◎本判決 
従前の最高裁判例を引用し、その上で、本件規程の定める夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない。

夫婦の氏の選択が夫婦となろうとする者の間の協議に委ねられている⇒夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占める事実が本件規定の在り方から生じた結果であるといえない。

憲法14条1項の「平等」が、少なくとも裁判規範としては基本的に形式的な平等をいうものであることを示した上で本件規定を当てはめ、さらに、間接差別、差別的効果の法理の考え方を念頭に置いて、文言上の当てはめにとどまらない検討をした。

○実質的平等の機能する場面
広く平等の観点から検討し、氏の選択に関し、これまでは夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数⇒この現状が、夫婦となろうとする者双方の真に自由な選択の結果によるものかについて留意が求められる

「仮に、社会に存する差別的な意識や慣習による影響があるのであれば、その影響を排除して夫婦間に実質的な平等が保たれるように図ることは、憲法14条1項の趣旨に沿うものである」

このような実質的平等を図ることは、直ちに裁判規範となるものではないものの、憲法24条に関連し、氏を含めた婚姻及び家族に関する歩数制度の在り方を検討するに当たって考慮すべき事項の1つ。
 
●憲法24条関係 

◎憲法24条1項 
○ 本判決:

憲法24条1項について、「婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」であるとした。

①本件規定が婚姻の効力を一つとして夫婦が夫又は妻の氏を称することを定めたものであり、婚姻をすることについての直接の制約を定めたものでない。
②婚姻及び家族にかする法制度の内容に意に沿わないところがあることを理由として婚姻をしないことを選択した者がいるとしても、これをもって上記法制度を定めた法律が婚姻をすることについて憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したものと評価することはできない。
 
◎憲法24条(2項) 

○憲法24条の法意:

最高裁昭和36.9.6:
「継続的な夫婦関係を全体として観察した上で、婚姻関係における夫と妻とが実質上同等の権利を享受することを期待した趣旨」とするが、法的な位置づけは明らかでない。 
 
○本判決: 
婚姻及び家族に関する事項については、関連する法制度においてその具体的内容が定められていくものであることから、当該法制度の制度設計が重要な意味を持つものであることを指摘。

憲法24条2項は、具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに、その立法に当たっては、同条1項も前提としつつ、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請、指針を示すことによって、その裁量の限界を画したものといえる」とする解釈。

「憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益をも尊重すべきこと、両性の実質的な平等が保たれるように図ること、婚姻制度の内容により婚姻をすることが事実上不当に制約されることのないように図ること等についても十分に配慮した法律の制定を求めるものであり、この点でも立法裁量に限定的な指針を与えるもの」として、憲法24条には憲法13条や14条1項の範囲にとどまらない固有の意義があることを認めた。 

婚姻及び家族に関する法制度を定めた規定が憲法13条や14条1項に違反する場合には、同時に憲法24条にも違反。
憲法13条や14条1項に違反しない場合であっても、更に憲法24条に適合するものかについて検討すべき場合があることになる。

◎憲法24条の合憲性判断基準

「婚姻及び家族に関する法制度を定めた法律の規定が憲法13条、14条1項に違反しない場合に、更に憲法24条にも適合するものとして是認されるか否かは、当該法制度の趣旨や同制度を採用することにより生ずる影響につき検討し、当該規定が個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠き、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ないような場合に当たるか否かという観点から判断すべきものとするのが相当である。」と説示。

合理性の基準。
典型的な意味での基本的人権を直接制約する規定の合憲性審査基準が問題となっているものではなく、検討すべき対象が人格的利益や実質的平等といった内容及び実在のあり方が多様な利益。

◎本件規定の検討 
①夫婦同氏制が我が国の社会に定着してきたものであること
②社会の自然かつ基礎的な集団単位である家族の呼称を一つに定めることに合理性が認められること
③夫婦が同一の氏を称することは、家族を構成する一員であることを対外的に公示し、識別する機能を有しており、夫婦間の子が嫡出子であることを示す仕組みを確保することにも一定の意義があること
④家族を構成する個人が夫婦同氏制によりその一員であることを実感することに意義を見出す考え方もあること
⑤夫婦同氏制の下においては、子がいずれの親とも氏を同じくすることによる利益を享受しやすいこと
⑥夫婦がいずれの氏を称するかは、夫婦となろうとする者の間の協議による自由な選択に委ねられていること
⑦夫婦同氏制の下においては氏を改める者に一定の不利益が生じ得ることは認めら獲るものの、婚姻前の氏の通称使用が広まることにより一定程度緩和され得ること

本件規定が直ちに個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠く制度であることは認めることはできない
⇒憲法24条に違反しない。

判例時報2284

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2016年5月 3日 (火)

再婚禁止期間違憲訴訟大法廷判決

最高裁H27.12.16    

<規定>
民法 第733条(再婚禁止期間)
女は、前婚の解消又は取消しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。
2 女が前婚の解消又は取消しの前から懐胎していた場合には、その出産の日から、前項の規定を適用しない。

民法 第772条(嫡出の推定) 
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。
2 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。

民法 第773条(父を定めることを目的とする訴え)
第七百三十三条第一項の規定に違反して再婚をした女が出産した場合において、前条の規定によりその子の父を定めることができないときは、裁判所が、これを定める。

憲法 第14条〔法の下の平等、貴族制度の否認、栄典の限界〕
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

憲法 第24条〔家族生活における個人の尊厳と両性の平等〕
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
②配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 
<事案>
平成20年3月に前夫と離婚したが、女性について6か月の再婚禁止期間を定める民法733条1項の規定があるため後夫との婚姻(再婚)が遅れ、精神的損害を被った⇒国賠請求訴訟。 

本件規定が両性の平等を定める憲法14条1項、24条2項に反するものであり、本件規定を改廃しない立法不作為は国賠法1条1項の適用上違法の評価を受ける。
⇒国であるYに対し、精神的損害等の賠償金165万円及びこれに対する遅延損害金の支払を求めた。
 
<判断>
上記当時においては、本件規程のうち100日超過部分が憲法に違反するものとなってはいたものの、これを国賠法1条1項の適用の観点からみた場合には、憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできない

国賠法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではない。 
 
<解説>
●本件規定の憲法適合性判断
◎ 本件規定を改廃しない立法不作為の違法性が争われた事案
最高裁H7.12.5:
民法733条の元来の立法趣旨が、父性の推定の重複を回避し、父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐことにある⇒国会が同条を改廃しないことが直ちに国賠法上違法となる例外的な場合に当たると解する余地がない。

◎本件規定の憲法適合性の判断方法
判例は、法律の規定の平等原則違反(憲法14条1項適合性)の判断方法に関し、当該区分に「合理的な根拠」(最高裁昭和48年4月4日)があるかどうかについて、立法府に合理的な範囲の裁量判断が認められることを前提に、事案に応じた判断枠組みの下で合理性を判断。

多くは、立法目的及び目的達成のための手段の合理性を具体的に検討して判断するという判断枠組みを示し、立法裁量の範囲の広狭にかかわる検討要素として、当該区別の事由や区別の対象となる権利利益の性質とその重要性を総合的に考慮するという判断方法。

本判決:
立法目的・手段による判断枠組みを示しており、その判断に当たっては「婚姻をするについての自由」が憲法24条1項の規定の趣旨に照らし十分尊重に値するものであり、本件規定が「婚姻」に対する直接的な制約を課すことを内容とするものであることを十分考慮に入れた検討が必要である旨を判示。

「婚姻をするについての自由」が重要なものであり、本件規定がこれを直接的に制約するものであるという事柄の性質を十分に考慮して、立法目的・手段の合理性を検討すべきことを判示したもの。

◎本件規定の憲法適合性判断

○立法目的
父性の推定の重複を回避し、もって父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐことにある。」

①現行の民法が、嫡出親子関係について法律上の父子関係を早期に定める父性の推定の仕組みを設けている趣旨
②民法733条2項が再婚後に前夫の子との推定が働く子が生れない場合を本件規定の除外規定として規定し、同法773条が本件規定に違反した再婚により同法772条の不正の推定が重複した場合の父子関係確定のための手続を設けているなど、本件規定が父性の推定の重複を避けるためにおかれていること

○100日の再婚禁止期間の合理性 
民法772条2項の懐胎時期の推定規定⇒父性の推定の重複を回避するめには計算上100日の再婚禁止期間が必要であり、この部分については立法目的との関係において合理性がある。

再婚禁止期間が6か月と定められたことを根拠づける理由:
①再婚後に前夫の子が生まれる可能性をできるだけ少なくして家庭の不和を避ける
②父性の判定を誤り結構に混乱が生ずることを避ける

①医療や科学技術の発達等とともにその意義が薄れ
②「婚姻をすることについての自由」(再婚)の制約をできる限り少なくするという要請が高まっていることなどの社会状況の変化等

遅くとも平成20年当時において、100日超過部分の合理性を保つことが困難になっている
 

ある法律の制定当時の立法事実に照らして制定当時は合憲と判断した上で、その後の立法事実の変化をたどりながらその後の合憲性を判断するという手法

違憲判断の基準時は、付随的意見審査制の下では当該個別事件において判断が求められる時期

●国賠法上の違法性判断 

◎従来の判例理論 
最高裁昭和60.11.21:
在宅投票制度を廃止しこれを復活しない国会の立法行為又は立法不作為の国賠法上の違法性が争われた事案において、「国会議員は、立法の関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国賠法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない」

最高裁H17.9.14:
在外国民の選挙権行使を認めない公職選挙法が憲法15条1項及び3項、43条1項並びに44条但書に違反するとの違憲判断を行った上、
そのような公職選挙法の改正を怠った立法不作為につき、「立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や、国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには、例外的に、国会議員の立法行為又は立法不作為は、国家賠償法1条1項の適用上、違法の評価を受けるものというべきである。」
⇒国賠請求を一部認容。

法律上選挙権の行使が否定されていたこと、および、選挙権行使を認めた1984年内閣提出の改正案が廃案となってから1996年の選挙に至るまで10年以上もの長きにわたり何らの立法措置も執ろうとしなかったことが重視されたものと思われる(芦部)

平成17年判決の前段・後段は、国会の立法行為又は立法不作為が例外的に違法となる場合の一部の例示にとどまり、これらの場合に限定する趣旨ではなく、前段は、違憲の法律を制定する立法行為やこれと同視し得る立法不作為により本来自由に行使し得る憲法上の権利が侵害され、期間の経過を要せずに直ちに地方となる極端な場合を想定した説示として述べたものにとどまる。

平成17年判決:「国民に憲法上保障されている権利」
本判決:「憲法上保障され又は保障されている権利利益」

既にある法律の規定が違憲とされた後、国家賠償法上違法となり得るのは、選挙権のような明確に人権とされる権利の侵害のみならず、憲法上保障される利益が合理的な理由なく制約された場合も含まれるはずであるという理解。

◎本件立法不作為の違法性の評価 
具体的な検討要素としては、
違憲の明白性の観点から

①本件規定の不合理性ないし違憲性が国会にとって容易に理解可能であったか否か
②本件規程をめぐっては、100日超過部分を撤廃する趣旨の平成8年の民法改正要綱が公表され、また、諸外国が再婚禁止期間を廃止する傾向にあったこと、
③本件規定については、憲法判断を示すことなく立法不作為の違法性を否定した平成7年判決という最高裁の先例があり、これによって再婚禁止期間の設定を含めてその改廃が立法政策に委ねられたとの信頼が立法府の側に生じたものと考えられ、
④本件規定の違憲性に論及する司法判断は今回が初めてであることなどの事情。

本判決は、上記①③④の点を重視して、本件立法不作為の違法性に係る判断基準時である平成20年時点における違憲の明白性を否定し、期間の要件については具体的に検討するまでもなく違法性が否定されると判断。
 
●その他 
論理的には、憲法適合性に関する判断が違法性の有無の判断に先行すると考えられるところ、合憲又は意見の判断を明示的に示す必要性が当該憲法問題の重要性・社会的影響等を考慮した個々の事案ごとの裁判所の裁量に委ねられているという立場に立ったもの。

判例時報2284

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2016年1月18日 (月)

ヘイトスピーチ規制についてのドイツの法状況③:民衆扇動罪

ドイツで集団侮辱よりも一般的に、人種や民族、宗教によって識別される集団に対するヘイトスピーチを処罰するための刑法条文は、130条の民衆扇動罪。

刑法130条(毛利教授の要約)

1項:国籍、人種、民族、宗教などによって定められる集団や、その構成員である個人に対して、「公共の平穏を乱すのに適した態様で」、「憎悪をかき立て、あるいは暴力的ないし恣意的措置をとるよう煽動する」こと、あるいはそのような態様で、それらの者を誹謗中傷することにより、その人間の尊厳を攻撃することの禁止。

2項:1項に該当する内容の文書を頒布、提示、放送などすること、およびそのために当該文書を作成・調達などすることの禁止。

3項:「公共の平穏を乱すのに適した態様で」、ナチスが行った民族謀殺を是認、矮小化し、またはその存在を否定することの禁止。

4項:ナチスの「暴力的かつ恣意的支配」を是認、賛美、あるいは正当化することにより、「犠牲者の尊厳を侵害する態様で公共の平穏を乱す」ことの禁止。

集団による誹謗的煽動は、いまだ特定の個人的法益の侵害に結びつくとは言えないが、それがもつ公共秩序への危険性に着目して、それを言論の段階で禁止しようとするのが、民衆扇動罪の特徴。

集団の利益それ自体を擁護しようとするものではない。

ヘイトスピーチについての米独比較を行ったヴィンフリート・ブルッガー
「刑法130条においては、特定されうる個人による個別の犯罪行為の具体的危険は存在しないにもかかわらず、それで刑法上の制裁に十分だとされているのであるが、この見解は、よかれあしかれ、ドイツ社会が、言葉においても行動においても反ユダヤ主義に特に染まりやすいということを引き合いに出すしかない」「ヒトラーの下でのドイツ」と「今日のドイツ」で、ヘイトスピーチが引き起こす害悪について「類似の予測」が成り立つということが、この条文を支える理解なのである。

■連邦憲法裁判所の態度
●慎重な適用を求める部会決定

具体的事案においては、極右のデモや集会を、刑法130条などに違反する発言がなされる蓋然性が高いことを理由に不許可とする処分の合憲性に対し、表現の自由や集会の自由への配慮から概して慎重な態度をとっていた。
特に2000年代に入ってから、極右のデモを広く認めようとする同裁判所の姿勢は、行政当局や行政裁判所との激しい摩擦を生み、このことが、ナチスの「暴力的かつ恣意的支配」の正当化自由をも法律で禁止する刑法130条4項の新設を促すことになった

①ある共同住宅でドイツ人家族とトルコ人家族との間の暴力沙汰について、「トルコ人のドイツ人に対するテロ」「ドイツ国内でドイツ人に対する民族浄化がおきる?」などという見出しを付けたビラを配布した者が、警報130条1項1号の罪に問われた事件。
2002年に連邦憲法裁判所は、原手続の有罪判決を部会決定で破棄。
←見出しだけに着目した有罪判決が批判され、文書を全体として理解すれば、当該ビラは主として事実を伝え、読者に反応を促そうとするもの。

②第二次世界大戦の敗戦直後にチェコスロバキアから追放されたズデーテン・ドイツ人の心境を歌おうとする「故郷追放者の歌」において、自分たちの家と土地が「よそ者」にはく奪されたとし、「我々を再びドイツのドイツ人たらしめよ!アメリカ人、ロシア人、異国の物は出ていけ・・ついには再び自分たちの家の主人とならん」という歌詞を差局したものが、刑法130条1項の罪で有罪に。
これに対し、連邦憲法裁判所は、2008年に、部会決定で破棄。
←この瑕疵は確かにかつての占領軍の批判ではあるが、国内の外国人の追放を求めるとか、それらの者に暴力的措置をとるよう求める内容と解するには、専門裁判所の判決には「十分跡づけうる論証がない」。被告人が極右思想の持ち主だとしても、だからといって直ちに当該歌詞からそのような内容が読み取れるようになるわけではない。


多義的表現を有罪とするには、有罪を導かない解釈をしっかりした理由をもって排除する必要があるという、1990年代以来の、批判も多い言明解釈基準を用いて、意見表明の自由の観点から民衆扇動罪の成立範囲を限定。

●刑法130条4項の合憲性についての第1法廷判決

連邦憲法裁判所は2009年に、ネオナチへの集会禁止処分の合憲性が争われた事件で、2005年に新設された刑法130条4項の合憲性を正面から扱い、しかもそれをナチスに対する特定の態度のみを禁止するものであって一般法律とは言えないとしつつ、それでもナチス支配の正当化は基本法に内在する例外として許されている


刑法130条4項を合憲性問題を例外的個別法というかたちで処理したことは、合憲判決がもたらす意見表明の自由法理へのインパクトを最小限に抑える意味もあった。
また、例外的な合憲判決を出すこととのバランスをとろうとしてか、本判決は一般論として意見表明の自由の重要性を強調しており、「戦う民主制」の標語として言われることとは正反対に、「自由の敵にも自由を保障する」というのが基本法の基本的立場であると明言するに至った。

表現活動が受け手にもたらす「主観的な不安」は、表現制約の根拠として持ちだすことはできず、実際の外面的な法益侵害の危険がなければならないということも、意見表明の自由についての基本的法理として、しかも「現存秩序の原理的転覆を目指す」内容の言論についてまで、認められている。

確かに、意見表明を禁じるために、外面的法益としての「公共の平穏」を害する危険性がどの程度必要なのかについては、あいまいな点が残る。しかし、例えば異論にさらされる者の恐怖心が、単なる主観的なものではなく、客観的に見て人々の平和的共存が脅かされていることの兆候だと認められる必要はあろう(本判決によれば、ナチス支配の是認は、ドイツ社会で一般にこのような効果を発生させることになる)。

そして、このような「公共の平穏」要件の解釈は、「公共の平穏を乱すのに適した態様」という弱まったかたちではあれ、それを構成要件に組み入れている刑法130条1項の解釈にも、影響を及ぼすことになろう。「純粋に精神的な領域」での議論を制約することは、基本法の要請として許されないのであり、ヘイトスピーチの可罰性を認めるには、それが人々の平和的共存に対して実際に危険性を有することが客観的に示されなければならないはずである。

●その後の部会決定
2011年に、刑法130条2項1号aの「流布」行為の解釈につき、部会決定で態度を示している。
部会決定は、2009年判決を参照しつつ、「意見の内容それ自体を禁止することは許されない。すでに法益侵害への移行を目に見えるかたちで内包しており、それによりはっきりした法益侵害との敷居を乗り越えるような、コミュニケーション態様のみが禁止しうる。」とする。
この観点から、多人数ではなく1人に対して文書を渡す行為を「流布」にあたるとする解釈は、意見表明の自由の要請に合致しないとした。

以上、毛利透京都大学大学院教授「ヘイトスピーチの法的規制について」(法学論叢176巻2・3号210頁(2014)、221頁~)

ヘイトスピーチ規制の問題について http://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-f4d2.html

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2016年1月17日 (日)

ヘイトスピーチ規制についてのドイツの法状況②:「アウシュヴィッツの嘘」判決と人種・民族集団への集団侮辱

集団侮辱は、人種・民族や宗教によって区別される集団について成立するか?

連邦憲法裁判所は、「兵士は殺人者だ」判決の前年、1994年に、ナチスによるユダヤ人虐殺の存在を否定する「アウシュヴィッツの嘘」と呼ばれる言論が、そいつ在住ユダヤ人に対する集団侮辱となることを肯定する判決。

憲法異議を申し立てた側の主張:このような集団侮辱を認める刑法解釈は、政治的に望ましくない言論を禁止するために使われる、侮辱概念の許されない拡張解釈であって、意見表明の自由を保障する基本法5条に反して違憲。

連邦憲法裁判所:侮辱罪の保護法益は「人格的名誉」としたうえで、原判決が「ユダヤ人迫害の否定の中に、重大な人格権侵害を認めた」ことには憲法上の問題はない。
「連邦通常裁判所によって確立された、第三帝国におけるユダヤ人住民に対する人種を動機とする虐殺の否定と、今日生活しているユダヤ人の尊重要求と人間の尊厳への攻撃との間の根拠づけ連関には、憲法上異論をはさむ必要はない」と述べ、ドイツ在住ユダヤ人に対する集団侮辱の成立を認めた。


ドイツ在住ユダヤ人に対する集団侮辱の肯定が、過酷な歴史的体験から生じた構成員個人個人の集団への強い帰属意識と、その歴史からドイツ社会構成員に生ずる、彼ら彼女らのユダヤ人としての自己理解に対する尊重責任に求められており、本判決の集団侮辱肯定は、ドイツのユダヤ人の置かれた特殊な歴史的・社会的環境によるところが大きい

専門裁判所の判決例においても、人種・民族や宗教集団について集団侮辱が認められた例は、ユダヤ人を除いては存在しない。

ドイツ在住ユダヤ人への集団侮辱が「その人数にもかかわらず」認められてきたのは、ナチス期に被った「歴史上唯一的な」運命によってのみ説明できるとし、その他の「もはや人数的に見渡し難い」民族的な「住民の一部」には集団侮辱は認められないとの解説。

以上、毛利透京都大学大学院教授「ヘイトスピーチの法的規制について」(法学論叢176巻2・3号210頁(2014)、220頁~)

ヘイトスピーチ規制の問題について http://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-f4d2.html

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ヘイトスピーチ規制についてのドイツの法状況①:集団侮辱「兵士は殺人者だ」判決

ドイツで、人種や宗教などによって特定される集団に対する侮辱的・脅迫的言論を禁止するための主な法的手段として
①刑法185条の侮辱罪を集団に対する侮辱に対しても適用する集団侮辱と、
②刑法130条の民衆扇動罪
がある。

集団侮辱とは、ある集団についての侮辱的発言が、その構成員個々人に対する侮辱と解され、侮辱罪に該当するとされるもの。

連邦憲法裁判所判決:1995年の「兵士は殺人者だ」判決。

意見表明の自由保障の観点から、集団侮辱の成立要件と厳格化した。

意見表明の自由解釈に際し、「基本法5条1項1文は、制裁への恐れから許される批判もなされなくなるような、基本権行使への威嚇的効果を発生させる刑法185条1以下の解釈を禁ずる。」としたうえで、さらに国家機構への批判が問題となっている場合には「権力批判への特別の保護の必要」に留意しなければならない、という基本姿勢。

集団侮辱を認める刑法解釈自体は容認
←個人が自身の属する集団と「多かれ少なかれ同一化する」ことがある。

意見表明の自由を考慮し、集団侮辱成立には、対象が「境界づけられ見渡せる集団」であることに加えて、非難がその集団のすべての構成員の特徴に結びつけられていることが必要。

①個人の名誉への攻撃と、許されるべき社会的批判、国家機構に対する批判との区別に困難が生じ、「それゆえ、そのような表現の処罰には、意見表明の自由に行き過ぎた制約を課す危険がある」
集団の規模が大きくなれば、その集団への攻撃でそれに属する各個人も攻撃されたと理解することは困難になる。

「兵士は殺人者だ」とうい具体的言明について、集団侮辱性を認める判決例の傾向を否定。

①ドイツ連邦軍兵士に対する侮辱的発言が、それを構成する個々の兵士に対する侮辱罪にあたるとする解釈は容認できるが、あらゆる兵士に対する侮辱が集団侮辱を構成することはできない。
②あらゆる兵士に対する侮辱を、その一部であるドイツ連邦軍に対する侮辱だと解釈することも許されない。
③「兵士は殺人者だ」という言明が集団侮辱となるためには、それが表面上は兵士一般を指しているにもかかわらず、そこで「まさしく連邦軍の兵士が意味されている」と立証できなければならないが、その立証が不十分。


本判決は、集団侮辱の上述の危険性を考えると、意見表明の自由保障の観点からは、英米法のようにこの解釈を認めない方が本来は適切だという姿勢を示唆しつつも、基本法自体がそこまでの限定的解釈を求めるわけではないとして、伝統的な刑法解釈を正面から覆すことは避けた。
そして、集団侮辱の成立に個人の名誉との関連性をより厳密に求めることで、意見表明の自由との調和を図った

以上、毛利透京都大学大学院教授「ヘイトスピーチの法的規制について」(法学論叢176巻2・3号210頁(2014)、218頁~)

ヘイトスピーチ規制の問題について http://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-f4d2.html

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ヘイトスピーチ規制についてのアメリカの法状況②:Black判決

Black 判決(Virginia v. Black, 538 U.S. 343(2002))

R.A.V.判決の理論は、2002年のBlack 判決で相対化。

本件も十字架焼却の事案であったが、処罰根拠になったのは、他の者あるいは集団を脅かす意図で、他人の土地や公共の場で十字架を焼却した者を重罪とする州法の規定。さらに、十字架を燃やすこと自体を、焼却者がそのような意図を有していることの一応の証拠とする条項(prima facie evidence)も存在。

連邦最高裁:
「一応の証拠」条項は違憲としたものの、処罰条文自体は合憲。

十字架焼却がKKKのアイデンティティ、イデオロギーの象徴としての役割を果たすと同時に、黒人に対する脅迫手段として用いられてきたことを数々の資料によりつつ説明。そして、州は「真の脅迫」を禁止することができることを確認したうえで、当該法律は、その中でも脅迫性の強い形態を取り出して禁止するものであり、R.A.V.判決が述べていた、内容による規制が許される場合にあたる。

当該法律は、人種や宗教、性別などに基づく脅しを取り出して禁止しているわけではない。「十字架焼却は、特に敵意の激しい脅しの形態である」。「バージニア州は、すべての脅迫的メッセージを禁止するのではなく、脅迫的メッセージのこの部分集合を、十字架焼却が切迫した暴力の印としての長く有害な歴史をもつことにかんがみて、選択して規制することができる」

「一応の証拠」条項については、十字架焼却だけで脅す意図の証拠として十分だとするものであると理解し、そうだとすると言論活動を制約しすぎるので違憲であると判断。

KKK集会などで十字架焼却は、脅しではなく政治的メッセージを伝えるためになされることがあるのに、この条項があれば、処罰される危険から、そのような保護されるべき活動も萎縮させられてしまう危険がある。確かに、集会での十字架焼却も、それを見る者には怒りや憎しみを抱かせるかもしれないが、この感情はそれを禁止してよい理由にはならない


言論が不快な感情を惹起するとしても、それはその言論を制約する理由とはならないという原則論を確認
脅す意図をもった十字架焼却が生ぜしめる恐怖を防止することは、言論規制を正当化する理由と位置づけられている。

表現活動がそれを受け取る諸個人に様々な反応を生むことは、当然予想されること、むしろ表現活動の意義と言っていいことであり、だからこそその反応は、表現活動を制約する理由とはならない

しかし、ある表現活動が、歴史的背景からして明らかに特定の集団に強い恐怖を抱かせるようなものである場合には、その恐怖は個人的反応というよりは、むしろ社会構造に発する必然的反応と考えるべきもの。
⇒その恐怖を独立の社会的害悪として評価し、表現への制約を正当化することも可能になる。

以上、毛利透京都大学大学院教授「ヘイトスピーチの法的規制について」(法学論叢176巻2・3号210頁(2014)、214頁~)

尚、ヘイトスピーチ規制の問題について http://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-f4d2.html

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2016年1月16日 (土)

ヘイトスピーチ規制についてのアメリカの法状況①:R.A.V.判決

R.A.V.判決(R.A.V.v.City of St.Paul, Minnesota, 505 U.S.377(1992))

黒人の自宅敷地内で十字架を燃やした者が起訴された事例で、根拠となったのが、市の「偏見を動機とする犯罪条例」中の、「他の者に、人種、肌の色、新庄、宗教または性別に基づく怒り、恐怖または敵意を引き起こす」と知ってしかるべき物体や文書などを設置した者を軽罪に処するとする条文。この条文には、例示として、燃える十字架やナチスのカギ十字を挙げていた。

州最高裁:この条例の規制対象は、連邦最高裁判例で規制が許されるとした「喧嘩言葉(fighting words)」に限定されると解釈し、そうであれば合憲であると判断。

連邦最高裁:この解釈を前提にしても、当該条文は違憲である。

①確かに名誉毀損やわいせつ表現などいくつかの範疇の表現は憲法上保護されないとされてきたが、このことは、これらの範疇内の表現はどのように規制しても憲法とは関係ないということを意味するわけではない。それらの中の禁止でも「憲法上禁止しうる内容(わいせつや名誉毀損など)」に基づかない場合には、内容に基づく許されない差別扱いとなりうる。
②「政府は名誉毀損を禁じることができる。しかし、政府は、政府に批判的な名誉毀損のみを禁止する、さらなる内容による差別を行うことは許されない」。たとえ「喧嘩言葉」の範疇内であっても、そこで伝えられるメッセージについての評価を理由にした規制は許されない
③部分規制について、まさにその理由に基づく部分規制ならば問題ない。わいせつ表現の中でわいせつ性の高いものだけを禁止することには、憲法上の問題はない。これに対し、わいせつ表現の中でも、政治的メッセージに基づく部分規制は許されない。

法廷意見は、本事案で問題となった条例は、まさに人種、宗教や性別など特定の主題に関する「喧嘩言葉」のみを禁止するものであり、さらに実際には、それらの主題に関して寛容や平等を説く側には反対は批判のための「喧嘩言葉」の使用を容認しつつ、憎しみを表現しようとする側の「喧嘩言葉」の使用を禁じるという、見解に基づく規制としても働く、という。このような規制は、議論の土俵を歪めるものであって、許されない。

確かに、人種などに基づく憎悪には対抗する必要があるが、「その対抗の仕方は、言論を選択的に制約することであってはならない。」「修正一条のポイントは、多数派の選好は、内容に基づいて言論を黙らせること以外の方法で表現されなければならないということである」

市側は、歴史的に差別されてきた人々の基本的人権を確保するという、やむにやまれぬ利益のためのものだとして厳格審査をパスすると言うが、この利益がやむにやまれぬものだとしても、その達成のためには本条例のような内容差別が不可欠とはいえない。


人種などの「偏見を動機とする」憎悪の広がりに対して対抗することや、歴史的に差別されてきた人々の人権を確保することを、公権力の重要な任務として認めている。にもかかわらず、この任務も、公権力がその立場に反する内容の言論を禁止することを正当化しないとされている。

公権力は思想について中立的である必要はないが、自己の立場で表現の自由規制を正当化してはならない。これは、表現の自由法理の鉄則といってもよいものであり、R.A.V.判決はこの鉄則をヘイトスピーチにも貫徹した。

ある内容の表現が特に強い感情的反応を引き起こすとしたら、それはまさに内容によってもたらされた効果であり、それを理由とする規制は内容に基づく規制に他ならない。これもまた、表現の自由法理の鉄則。

以上、毛利透京都大学大学院教授「ヘイトスピーチの法的規制について」(法学論叢176巻2・3号210頁(2014)、212頁~)

尚、ヘイトスピーチ規制の問題について http://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-f4d2.html

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ヘイトスピーチ規制の問題について

東京弁護士会がヘイトスピーチの集会を拒否するためのパンフを作製し配布したというニュースhttp://mainichi.jp/articles/20160110/k00/00e/040/125000cに関し、ブログを書いたhttp://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-e62a.htmlが、その続編である。本日(平成28年1月16日)の日経新聞朝刊では、大阪市議会がヘイトスピーチ規制条例が可決されたとの記事が掲載されている。

■ヘイトスピーチ規制の問題性

毛利透京都大学大学院教授が最新の判例時報(2275号)に「表現の自由」について書かれており、その脚注で同教授が「ヘイトスピーチの法的規制について」という論稿を法学論叢(176巻2・3号210頁(2014))に書かれていることを知り、早速入手した。

それは、ヘイトスピーチについての「アメリカの法状況」と「ドイツの状況の法状況」を紹介した上で、「両国の比較と日本への示唆」について書かれたものである。
アメリカは、表現の自由を重視し、ヘイトスピーチに対しても憲法上の保障を及ぼす国家として知られ、他方ドイツは、ナチスの反ユダヤ主義に対する反省もあって、人権主義的言論に対しても比較的広範な法的規制を課している。

詳細は原文に当たっていただきたいが、以下の指摘がなされている。

・ヘイトスピーチであっても、それに接する者の主観的不快感、不安感を理由として規制することは認められないという点は、両国で共通である。(233頁)

・ヘイトスピーチ規制の難問は、個人の特定の法益がまだ害されていない段階で、特定集団への誹謗的・脅迫的言論を禁止することがどの程度許されるかという点にある。この点、アメリカはもちろんドイツでも、それら集団自体の利益が表現の自由を制約しうる理由となるとは解されていない。集団的侮辱も、集団自体の名誉を擁護しようとするものではない。法的議論の出発点を、個人が権利主体であるということに置くなら、この立場は堅持すべきであろう。(234頁)

・国家がある思想を「正しくない」と評価して禁止することも許されない。個人が、自らが真であると考えることを公共の場で自由に述べることは、それが他者の自由な評価を許す無力性を保っている限り、個人と共同体双方の自律を維持するために不可欠である。たとえ、その主張が、むしろ共同体を分裂させる内容を有するものだとしても、このような原理的視点を見失うべきではない。(234頁)

・ヘイトスピーチ規制の許容性を考える際に着目すべきは、攻撃対象となった人々が抱く不安感が、法的な対処を必要としない主観的な反応にとどまると評価できるか否かであろう。たとえそれらの人々が個別に侮辱や脅迫を受けているのではないとしても、集団の一員として感じる恐怖心が、当該社会の歴史的状況からして、単なる個々人の主観的不安にとどまるとは言えない、社会的に根拠のある反応であり、それにより社会における人々の平和的共存が脅かされる危険が客観的に存在するといえる場合には、ヘイトスピーチ規制が可能となると考えられる日本で、ヘイトスピーチ規制を表現の自由の観点から正当化できるかどうかは、日本において少数派集団が置かれている状況をどのように理解するかに大きく左右されることになろう。私は個人的には、(日本では)原状を超える法規制が正当化できる状況ではないのではないかと思う。(234~235頁)

・最後に、言わずもがなのことではあるが、ヘイトスピーチ規制は国家の規制権限を拡大するものであり、それが濫用される恐れは否定できない。立法論にあたっては、法を運用する当局をどの程度信頼できるのかという問題も、考慮に入れられなければならないだろう。(236頁)

以上のように、毛利透京都大学大学院教授は、アメリカとドイツの状況を踏まえ、表現の自由の特性と重要性から、ヘイトスピーチ規制について慎重な態度をとられている。この考えは、憲法学者の中で異端というものではないであろう。

■表現の自由について

憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。」と規定するところ、「表現の自由」は、①個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、②立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に「表現の自由の優越的地位」が帰結される。(佐藤幸治「日本国憲法論」(以下「佐藤」とのみ引用)249頁)そして、①情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであること、また、②手続上の保障や実際上の抑止的効果において事後規制の場合に比べて問題が多いこと、から、憲法による「表現の自由」の保障には、事前抑制の原則的禁止が含まれるということは一般に承認され(佐藤256頁)、また表現内容に着目した内容規制は、時・場所・方法等の規制にかかわる内容中立的規制の場合より、厳格な審査が求められる。(佐藤261頁)

そして、最高裁判所も、市民会館にける集会を「公の秩序をみだすおそれ」を理由として不許可できる要件について、泉佐野市民会館事件最高裁判決(H7.3.7)は、集会の自由の観点から、それが対立集団の激しい反発を招くことが予想される場合であっても、不許可とするには「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要である」としており、集会が発する政治的メッセージがもちうる効果を理由として制約することに対する慎重な姿勢を示す判決として理解されている。(毛利透「法曹実務にとっての近代立憲主義(第一回)表現の自由① 初回は大きな話から」判例時報2275号9頁)

東京弁護士会のパンフは、ヘイトスピーチを対象に、自治体に施設利用の拒否を推奨するもので、毛利教授の立場からはもちろん、上記最高裁判例の基準からも問題であろう。
本日の朝刊には、大阪市がヘイトスピーチ規制条例を可決したと報道されているが、東京弁護士会の上記意見表明に後押しされて、同様の条例を制定する動きやヘイトスピーチへの規制が加速されることが考える。

国が専制化する場面、真っ先に規制されるのが表現の自由である(ドラッカーも、人は自由と安全であれば、安全を選ぶと指摘する)。安保法案が成立し、憲法の危機、表現の自由に対する危機が現実化する中、対象がヘイトスピーチであるとはいえ、憲法と表現の自由を守るべき立場にある東京弁護士会が、憲法議論上許されないとされてきた、(行政府による)表現内容に基づく事前規制を推奨することに驚きを隠せない。

■弁護士の劣化

私は約30年前、「表現の自由」は憲法上最も重要な権利として学んだが、法曹関係者であっても、そういう意識の欠如を感じる。私は、大学時代不勉強な学生であったが、わからないなりに、学者(佐藤幸治先生)の憲法を読んで、理解しようと努めてきた。だから、憲法議論は忘れても、ヘイトスピーチ規制と聞いて、「まずいのでは?」と違和感を感じたのであろう。
ところが、ここ30年の間に、司法試験の世界も予備校が盛んになっている。
学者の本を勉強する場合には、「(難解な本を)読んで理解する」という過程があったが、予備校の教材で勉強した学生は、その過程をすっ飛ばす。予備校がわかりやすくまとめた教材を理解するのに、理解の苦労もなにもない。そして、予備校の論点集を暗記する。そのような勉強をしてきた人間が大半になってきたことも、誰も違和感を抱くことなく、表現の自由を制約するヘイトスピーチ規制を推奨するような意見がまとまった一因ではないだろうか。
司法試験委員をされていた佐藤幸治先生が、同じ論点についてカンニングしたのかと思えるような全く同じ文章を書いている答案がいくつもあり、予備校の論点集を丸暗記しているのだろうと嘆いておられたことが思い出される。

■言葉狩りの危うさ

最近は、ネットで、不適切(と思われる)発言がなされると、叩かれる。「あなたの意見は○○という理由で間違っている。」とか「私はあなたの意見に反対だ」という反論はいい。しかし、身元をばらされ、勤務先に通報され、処分を受けるという事例もある。当然、社会的立場のある人は、自分の意見を言えなくなる。その「言えなくなる意見」とは「誤った意見」ではなく「(世間の)反発を受けるであろう意見」である。

価値観は時代の流れによって変わるし、叩かれた少数意見がその後正しいものとして受け入れられることもある。
名誉棄損に当たる個人攻撃はともかく、そうでない発言を抑え込みそれを容認する風潮は、不健全な状況だと思う。

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2016年1月11日 (月)

東京弁護士会のヘイトスピーチの「集会を拒否できる」パンフへの違和感

東京弁護士会がヘイトスピーチの集会を拒否するためのパンフを作製し配布したというニュースに接した。http://mainichi.jp/articles/20160110/k00/00e/040/125000c

尚、パンフ自体はネットで見つけることができなかったので、確認できていない。

私も、多くの弁護士と同様、日頃仕事で「憲法」を使うわけではなく、ほぼ大学での勉強と司法試験のための勉強の延長線上での知識と感覚によるものだが、上記ニュースに非常な違和感を感じた。そこで、憲法上問題があるのではというコメントをしたところ、反論を頂いたので、その違和感を確認すべく、憲法の本を開いてみた。

憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。」と規定する。

そして、「表現の自由」は、①個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、②立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に「表現の自由の優越的地位」が帰結される。(佐藤幸治「日本国憲法論」(以下「佐藤」とのみ引用)249頁)

「表現の自由」は人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤であるとともに、人の内面的精神活動の自由や人身の自由や私生活の自由などの保障度を国民が不断に監視し、自由の体系を維持する最も基本的な条件であって、その意味で「ほとんどすべての他の形式の自由の母体であり、不可欠の条件である」(カードーゾ裁判官)(佐藤249頁)

また、構成的原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、統治制度とその活動のあり方を不断に監視し問うことを可能にする「公開討論の場」が国民の間に確保されることを要請する。集会・結社の自由、いわゆる「知る権利」を包摂する表現の自由は、国家からの個人の自由ということを本質としつつも、同時に、公開討論の場を維持発展させ、国民によるよる政治の運営を実現する手段であるという意味において国民主権と直結する側面を有している。(佐藤396頁)

そして、表現の自由の「優越的地位」に照らし、一般に通常の合憲性推定の原則が排除され、むしろ基本的に違憲性推定の原則が妥当し、その合憲性判断についても、基本的人権の制約に妥当する「合理性」の基準によるべきではなく、したがって事件ごとにあらゆる利益を衡量する「個別的利益衡量」に依拠することなく、変動する政治社会状況から表現の自由を守るに足る厳格な審査を可能にする客観的な判断枠組・基準を確立し、それを遵守しながら具体的な判断を行うことが要請される。そして、憲法は「検閲」の禁止を明記してこの点を示唆している。(佐藤254頁)

尚、米国でも、ニューヨークタイムズ社対サリバン事件判決(1964年)は、公務員の公的活動にかかわる名誉毀損事件では、被害者の方でその言説が「現実の悪意」をもってなされたこと(虚偽であることを知っていたか、また虚偽か否かを不遜にも顧慮しなかったこと)を立証しなければならない、との法理を打ち出した。この法理の基礎に据えられたのは「誤謬を含む陳述は自由な討議において避けがたいものであり、表現の自由が『息をつく余裕』をもつためにはそれも保護されなければならない」という考え方であった。表現の自由が元来「壊れやすく傷つきやすい」点に着目したこの「萎縮的効果」論は、名誉毀損の文脈においてのみならず、表現の自由の保障の全般を貫く基礎的哲学と解すべきものではないかと思われる(毛利透)。(佐藤254頁)

事前抑制とは、広義においては、表現行為がなされるに先立ち公権力が何らかの方法で抑制すること、および実質的にこれと同視できるような影響を表現行為に及ぼす規制方法をいう。この方法は、①情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであること、また、②手続上の保障や実際上の抑止的効果において事後規制の場合に比べて問題が多いこと、から、憲法による「表現の自由」の保障には、事前抑制の原則的禁止が含まれるということは一般に承認されている。(佐藤256頁)

そして、それとは別に、①漠然性故の無効の法理(明確性の法理)、②必要最小限の規制手段の選択に関する法理といった厳格な審査基準が求められる。

司法による事前差止について、北方ジャーナル事件で、最高裁は、公務員または公職選挙の候補者に対する評価・批判などにかかわる表現行為について、(1)①その表現内容が真実でなく、または②それが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、(2)被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときは、例外的に事前差止も許されるとする。同判決は、また、仮処分命令を発するについては「口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性などの主張立証の機会を与えることを原則とすべきもの」と述べ、当然のことながら手続保障にも配慮している。(佐藤257~258頁)

尚、表現内容に着目した内容規制は、時・場所・方法等の規制にかかわる内容中立的規制の場合より、厳格な審査が求められる。(佐藤261頁)

「集会、結社の自由」は、集団としての意思を形成し、その意思実現のための具体的行動をとることをその内実とするもので、「表現」と同一線上にある。(佐藤284頁)

公園や市民会館での集会の不許可について、最高裁は、
①「管理権に名をかりて実質上表現の自由又は団体行動権を制限することを目的としたものとも認められない」として不許可処分を正当とし(皇居外苑使用不許可事件判決)(佐藤286頁)、あるいは
②妨害による混乱を理由に公の施設の使用を拒否できるのは、「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができない特別の事情がある場合に限られる」として不許可処分を違法とする。(神尾市福祉会館訴訟)(佐藤288頁)

以上を読む限り、対象がいわゆるヘイトスピーチ(それ自体から意味が明確でないように思われる)であるとはいえ、憲法上優越的な権利として最大限保障されるべき「表現の自由」に十分尊重すべき弁護士会が、(司法でない)行政による表現内容を理由とする集会規制を推奨することへの違和感は残ったままである。

東京弁護士会は、「人種差別撤廃条約」を根拠に規制できるとするようだが、日本は、同条約、第4条(a)及び(b)に関して、次の留保を付している。
「日本国は、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約第4条の(a)及び(b)の規定の適用に当たり、同条に「世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って」と規定してあることに留意し、日本国憲法の下における集会、結社及び表現の自由その他の権利の保障と抵触しない限度において、これらの規定に基づく義務を履行する。」

つまり「日本国憲法の下における集会、結社及び表現の自由その他の権利の保障と抵触しない限度において」(条約上の)義務を履行するものであることを明確にしている。

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