「社会的次元としての経済」
私は、経済が秩序として依拠する、そしてそれなしに経済が維持できない基本的な前提を受け入れない。私は、経済の領域が、支配的なものということはもちろん、独立した領域であるということも受け入れない。確かに、それは重要な領域である。そして、ベルトルト・ブレヒトが言ったように「最初に胃袋が来てから、道徳が来る」のであり、胃袋を満たすことが経済が主に関係することである。全ての政治的/社会的判断において、経済的コストが計算され考慮されるべきである。「恩恵」のみを語ることは、無責任であり、大失敗につながる。私は多くの選択肢を見てきたが、自由市場を信じる。
しかしなお、私にとって、経済は、(独立した領域ではなく)1つの領域にすぎない。経済的考慮は優越的な決定的要因というより抑制である。経済的欲求と経済的満足は重要であるが絶対的なものではない。なにより、経済的活動、経済的組織、経済的合理性は、それ自体が目的ではなく、非経済的(即ち、人間的あるいは社会的)目的のための手段である。そしてこれは、私が、経済学を自律的な「科学」であるとは見ていないことを意味する。端的に言えば、それは私が経済学者でないことを意味し、私は、そのことを、1934年にロンドンのマーチャントバンクの若い経済専門家として、ケンブリッジでケインズのセミナーに参加した時以来知っている。私は、ケインズは商品の動きに興味を持ったが、私は人々の行動に興味があることに気が付いた。
ソース:The Daily Drucker 22 January.
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