ヘイトスピーチ規制の問題について
東京弁護士会がヘイトスピーチの集会を拒否するためのパンフを作製し配布したというニュースhttp://mainichi.jp/articles/20160110/k00/00e/040/125000cに関し、ブログを書いたhttp://kmasafu.moe-nifty.com/blog/2016/01/post-e62a.htmlが、その続編である。本日(平成28年1月16日)の日経新聞朝刊では、大阪市議会がヘイトスピーチ規制条例が可決されたとの記事が掲載されている。
■ヘイトスピーチ規制の問題性
毛利透京都大学大学院教授が最新の判例時報(2275号)に「表現の自由」について書かれており、その脚注で同教授が「ヘイトスピーチの法的規制について」という論稿を法学論叢(176巻2・3号210頁(2014))に書かれていることを知り、早速入手した。
それは、ヘイトスピーチについての「アメリカの法状況」と「ドイツの状況の法状況」を紹介した上で、「両国の比較と日本への示唆」について書かれたものである。
アメリカは、表現の自由を重視し、ヘイトスピーチに対しても憲法上の保障を及ぼす国家として知られ、他方ドイツは、ナチスの反ユダヤ主義に対する反省もあって、人権主義的言論に対しても比較的広範な法的規制を課している。
詳細は原文に当たっていただきたいが、以下の指摘がなされている。
・ヘイトスピーチであっても、それに接する者の主観的不快感、不安感を理由として規制することは認められないという点は、両国で共通である。(233頁)
・ヘイトスピーチ規制の難問は、個人の特定の法益がまだ害されていない段階で、特定集団への誹謗的・脅迫的言論を禁止することがどの程度許されるかという点にある。この点、アメリカはもちろんドイツでも、それら集団自体の利益が表現の自由を制約しうる理由となるとは解されていない。集団的侮辱も、集団自体の名誉を擁護しようとするものではない。法的議論の出発点を、個人が権利主体であるということに置くなら、この立場は堅持すべきであろう。(234頁)
・国家がある思想を「正しくない」と評価して禁止することも許されない。個人が、自らが真であると考えることを公共の場で自由に述べることは、それが他者の自由な評価を許す無力性を保っている限り、個人と共同体双方の自律を維持するために不可欠である。たとえ、その主張が、むしろ共同体を分裂させる内容を有するものだとしても、このような原理的視点を見失うべきではない。(234頁)
・ヘイトスピーチ規制の許容性を考える際に着目すべきは、攻撃対象となった人々が抱く不安感が、法的な対処を必要としない主観的な反応にとどまると評価できるか否かであろう。たとえそれらの人々が個別に侮辱や脅迫を受けているのではないとしても、集団の一員として感じる恐怖心が、当該社会の歴史的状況からして、単なる個々人の主観的不安にとどまるとは言えない、社会的に根拠のある反応であり、それにより社会における人々の平和的共存が脅かされる危険が客観的に存在するといえる場合には、ヘイトスピーチ規制が可能となると考えられる日本で、ヘイトスピーチ規制を表現の自由の観点から正当化できるかどうかは、日本において少数派集団が置かれている状況をどのように理解するかに大きく左右されることになろう。私は個人的には、(日本では)原状を超える法規制が正当化できる状況ではないのではないかと思う。(234~235頁)
・最後に、言わずもがなのことではあるが、ヘイトスピーチ規制は国家の規制権限を拡大するものであり、それが濫用される恐れは否定できない。立法論にあたっては、法を運用する当局をどの程度信頼できるのかという問題も、考慮に入れられなければならないだろう。(236頁)
以上のように、毛利透京都大学大学院教授は、アメリカとドイツの状況を踏まえ、表現の自由の特性と重要性から、ヘイトスピーチ規制について慎重な態度をとられている。この考えは、憲法学者の中で異端というものではないであろう。
■表現の自由について
憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。」と規定するところ、「表現の自由」は、①個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、②立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に「表現の自由の優越的地位」が帰結される。(佐藤幸治「日本国憲法論」(以下「佐藤」とのみ引用)249頁)そして、①情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであること、また、②手続上の保障や実際上の抑止的効果において事後規制の場合に比べて問題が多いこと、から、憲法による「表現の自由」の保障には、事前抑制の原則的禁止が含まれるということは一般に承認され(佐藤256頁)、また表現内容に着目した内容規制は、時・場所・方法等の規制にかかわる内容中立的規制の場合より、厳格な審査が求められる。(佐藤261頁)
そして、最高裁判所も、市民会館にける集会を「公の秩序をみだすおそれ」を理由として不許可できる要件について、泉佐野市民会館事件最高裁判決(H7.3.7)は、集会の自由の観点から、それが対立集団の激しい反発を招くことが予想される場合であっても、不許可とするには「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要である」としており、集会が発する政治的メッセージがもちうる効果を理由として制約することに対する慎重な姿勢を示す判決として理解されている。(毛利透「法曹実務にとっての近代立憲主義(第一回)表現の自由① 初回は大きな話から」判例時報2275号9頁)
東京弁護士会のパンフは、ヘイトスピーチを対象に、自治体に施設利用の拒否を推奨するもので、毛利教授の立場からはもちろん、上記最高裁判例の基準からも問題であろう。
本日の朝刊には、大阪市がヘイトスピーチ規制条例を可決したと報道されているが、東京弁護士会の上記意見表明に後押しされて、同様の条例を制定する動きやヘイトスピーチへの規制が加速されることが考える。
国が専制化する場面、真っ先に規制されるのが表現の自由である(ドラッカーも、人は自由と安全であれば、安全を選ぶと指摘する)。安保法案が成立し、憲法の危機、表現の自由に対する危機が現実化する中、対象がヘイトスピーチであるとはいえ、憲法と表現の自由を守るべき立場にある東京弁護士会が、憲法議論上許されないとされてきた、(行政府による)表現内容に基づく事前規制を推奨することに驚きを隠せない。
■弁護士の劣化
私は約30年前、「表現の自由」は憲法上最も重要な権利として学んだが、法曹関係者であっても、そういう意識の欠如を感じる。私は、大学時代不勉強な学生であったが、わからないなりに、学者(佐藤幸治先生)の憲法を読んで、理解しようと努めてきた。だから、憲法議論は忘れても、ヘイトスピーチ規制と聞いて、「まずいのでは?」と違和感を感じたのであろう。
ところが、ここ30年の間に、司法試験の世界も予備校が盛んになっている。
学者の本を勉強する場合には、「(難解な本を)読んで理解する」という過程があったが、予備校の教材で勉強した学生は、その過程をすっ飛ばす。予備校がわかりやすくまとめた教材を理解するのに、理解の苦労もなにもない。そして、予備校の論点集を暗記する。そのような勉強をしてきた人間が大半になってきたことも、誰も違和感を抱くことなく、表現の自由を制約するヘイトスピーチ規制を推奨するような意見がまとまった一因ではないだろうか。
司法試験委員をされていた佐藤幸治先生が、同じ論点についてカンニングしたのかと思えるような全く同じ文章を書いている答案がいくつもあり、予備校の論点集を丸暗記しているのだろうと嘆いておられたことが思い出される。
■言葉狩りの危うさ
最近は、ネットで、不適切(と思われる)発言がなされると、叩かれる。「あなたの意見は○○という理由で間違っている。」とか「私はあなたの意見に反対だ」という反論はいい。しかし、身元をばらされ、勤務先に通報され、処分を受けるという事例もある。当然、社会的立場のある人は、自分の意見を言えなくなる。その「言えなくなる意見」とは「誤った意見」ではなく「(世間の)反発を受けるであろう意見」である。
価値観は時代の流れによって変わるし、叩かれた少数意見がその後正しいものとして受け入れられることもある。
名誉棄損に当たる個人攻撃はともかく、そうでない発言を抑え込みそれを容認する風潮は、不健全な状況だと思う。
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